『佛説大安般守意經』における「本文」と「註」の解明(二)──「浄」から「五根」まで
Distinguishing Text from Annotations in “Foshou Da Anban Shouyi Jing T602″ (Part Two)
釋果暉
 
     筆者は、第三期の法鼓仏学学報において『佛説大安般守意經』『新出安般經』という両經における「安般法の六事」を中核として、順番に「数」「随」「止」「観」「還」のそれぞれの段落の内容を比較し、そして「本文」と「註」との箇所を判別した。つまり、『佛説大安般守意經』に対して『新出安般經』と対応する文、用語、あるいは意味の同じ箇所を原始的な「本文」と定義し、そしてこのような「本文」に対する解釈を「註」と見分ける。
     本論では引き続き両經における「安般法の六事」の最後の部、すなわち「浄」の部分を比較することにする。その内容は、「四意止(四念処)」、「四意斷(四正勤)」、「四神足」「五根」の部分を包括する。このような比較をすることによって『佛説大安般守意經』中の「本文」と「註」との箇所を分別する。残りの「五力」、「七覚意(七菩提分)」、「八行(八正道)」、「止観」「四諦」「四解依(四無碍辯)」の部分は、次の研究課題としたい。
     研究の結果、『新出安般經』中の「四神足」は、煩雑かつ重複する部分がしばしば見られるが、『佛説大安般守意經』のそれと対応する箇所には、殆んどが省略され、かわりに理解しやすい「神通」「飛行」などの語が加えられた。また、『新出安般經』中、多くの定型句の接頭辞としての「如(應)有諦」は、『佛説大安般守意經』ではより簡略的な語の「從諦」に一変した。さらに、五根の信根の内容で難解な「隨分別可念可可」は、より容易に理解できる「信佛意喜」へと変わった。また、『佛説大安般守意經』と『新出安般經』との間には中間型『安般經』が確かに存在すると推定できる。


        筆者在第三期的法鼓佛學學報中,對《佛說大安般守意經》、「新發現安般經」之兩經內容以「安般之六事」為核心,逐一比對了兩經之「數」、「隨」、「止」、「觀」、「還」各個段落之對應關係,而判別「本文」與「註」,也就是《佛說大安般守意經》內容與「新發現安般經」的詞語或意義相對應的部份,視為《佛說大安般守意經》的原始本文,對此「本文」之解釋則為「註解」。
        本篇論文則繼續探討兩經對「安般之六事」最後一事,也就是「淨」部份之比對,這包括了「四意止」即所謂的四念處、「四意斷」即所謂的四正勤、「四神足」、「五根」。「五力」、「七覺意」即七菩提分、「八行」即八正道、「止觀」、「四諦」及「四解依」即四無礙辯的部份,則留在以後繼續研究。
        而我們也發現原來在「新發現安般經」中,「四神足」是較繁瑣而重複出現的部份,這在《佛說大安般守意經》都看不到了,也就是被省略掉了,而被加進了「神通」「飛行」的解釋。可以推斷是安世高將此故意將此高階而難解的修行概念省略之故。
        在較難解的詞句或概念,在相對應的《佛說大安般守意經》的內容之中,都變成較簡短或簡明易瞭解了,定型句接頭詞的「如(應)有諦」變為「從諦」。解釋「信根」的「隨分別可念可可」,也變為容易了解的「信佛意喜」。
        從「新發現安般經」的「如(應)有諦」變為《佛說大安般守意經》的「從諦」,我們相信「如有( yathābhūtaṃ)兩字一定被省略了,也可推斷在「新發現安般經」與《佛說大安般守意經》之間有過渡型之「中間型安般經」之存在。

關鍵詞:
安世高、經與註、淨、陰持入經、中間型安般經